私は幼い頃から、忍耐強く頑張れば、立派な人間になれると思っていました。
だから一生懸命、本を読んで足りない部分を埋めようとしてきた。
私の知らない知識を少しでも吸収したくて一生懸命読むけど、途中で白昼夢(脳内で空想に耽ること)に入ってしまって、内容が頭に入ってこない。
そして、また同じところを読んでは、また白昼夢に入って、また同じところを繰り返し読んで…と、なかなか先に進まない本を、何ヶ月もかけて読んでいました。
ある時は自分の学んだ知識のアウトプットや、自己分析などのためにノートを買っては、はじめの1ページ目が綺麗に使えるか心配で、なかなか使うことができなかった。
やっとの思いで使えたかと思うと、やっぱり綺麗に書けなくて、最初の数ページを除いて白紙のまま、もう使わないノートばかりが並んだ本棚にしまうことになる。
いつか必ず、私は立派な人間になってこの苦しい日々から抜け出すんだと、そして抜け出すためには、こうやって地道に努力する必要があるんだと思ってきました。
だから読めなくても、書けなくても、頭の中は次は何を学ぼうか、ということでいっぱいでした。
だけど、そうやって神経質になって次のステップが踏めないでいると、延々に時間ばかりが過ぎていくだけ。
そして、ある日、夜寝ている時に見た夢が語りかけてきたんです。
「それってなんか、囚人みたいじゃない?」って。
心の檻の中で一生懸命、檻の外の世界を夢見ている。
「いつか、檻から出た時に恥ずかしくないように、いまここで立派な人間になれるように頑張らないと」というふうに、檻の中で、檻の外のことを勉強している。
普段人と関わる時は、「私、全然トラウマなんかなくて、まともな人間なんですよ」と別人格を演じて、立派な人間のふりをしてきたけど、心は檻の中に引きこもったまま。
刑期ウン十年の檻の中で、自分自身に罰を科すように、喜びを感じられる選択肢を封じてきました。
だけど、私は「早く外に出たい」と思っているのと同時に、「このままここにいたい」とも思っていました。
外に出て、私の無防備な心を世間に晒すくらいなら、このまま檻の中にいて、苦しい日々に耐えるほうがマシだと。
そして、この私のエピソードのような「このまま変わりたくない」という憂鬱さと、「檻の外に出たい」という希望、両方の思いに応えるキーとなるのが、「脳梁を繋ぐこと」なのではないかと感じています。
脳梁とは、右脳と左脳のあいだで情報をやりとりするための太い神経の束で、脳の連携を助ける「橋」のような役割をしている器官のこと。
そして右脳は感じる部屋であり、左脳は考える部屋です。
右脳に寂しさや不安、恥ずかしさ、怒りなどの感情の嵐が吹き荒れる時、私はいつもその部屋に鍵をかけて、左脳に逃げ込んでいました。
左脳は分析が得意な部屋ですから、「この状況から打破するためにはどうすればいいか?」を一生懸命考えます。
その結果、まだ読めていない本があることを忘れて、次々と本を買ったり、ノートの1ページ目を開くたびに、「綺麗に書かなきゃダメだよ」と、頭の中で声がする。
そう、脳梁が繋がれていないことで、私は感情の部屋(右脳)に閉じ込められた囚人であり、同時に思考の部屋(左脳)で自分を監視する看守でもあったのです。
脳梁が繋がれると、左脳は右脳からの情報を受け止め、使えるようになります。
感じる部屋で「こわい」とつぶやく声を、考える部屋が「大丈夫、今は安全なんだよ」と受け止める。
考える部屋で「また失敗した」と責める声に、感じる部屋が「本当はつらかったんだね」と寄り添う。
そうやって、感情と言葉が出会うと、感じながら考えることができるようになり、読みたい本を読み、書きたい時に書けるようになっていく。
そしてだんだんと、無駄なことをしなくなり、自分の感覚で人生を楽しむことができるようになる。
脳梁は、心の檻から自分の居場所へと渡してくれる橋なのかもしれません。
今回のシリーズでは、そんな脳梁を繋ぐ魅力について書いていきたいと思います。
(つづく)
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