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「心に聞く」のブログを書き始めてから、師匠(友人)のところに通って、指導を受けています。
初めて師匠に誘導してもらって、こうやって心に聞くのか!ということはわかったけど、いざ1人になって聞こうと思ったら、やっぱり無理かも…などと、浮かんでくるのは抵抗だらけ。
次の約束の時は、今日は1人で心に聞くことへの抵抗について聞いてみよう!と決めて、誘導してもらいました。
「心よ、私はどうして1人でいる時に心に聞くことに抵抗があるの?」
浮かんできたのは、大人に怒鳴られている幼少期の自分の姿。
そして、おでこの裏のあたりで、急に目が回る気持ち悪い感覚を感じました。
「心よ!この怒鳴られているイメージと、心に聞けないことが関係があるの?」
そうすると今度は、3人の大人に囲まれ、強く非難されている幼い頃の自分の姿が出てきた。
幼い頃の私は座っていて、立って私を非難している大人たちを、恐怖の表情で見上げていた(記憶ではなくメタファーです)。
そして、そのイメージを眺めながら浮かんできたのは、「居たくないこの場面にいるために、自分の心を閉じて守っている」という言葉。
私は1人になりたい時に1人になることを許されてこなかったので、その場にいることである程度大人の侵入を許し、心を閉じることで精神的に1人になろうとしていた。
「心よ!私はどうやったら1人でいる時に、抵抗なく心に聞くことができるようになるの?」
今度は、現在の私がある人に向かって、「それは難しいです」と断っているイメージが出てきた。
その返答を聞いて、誘導してくれた友人は混乱して、「心よ!そのイメージは心に聞けるようになるのと、何が関係があるの?」と聞いてくれた。
心から返ってきたのは、「なんでもYesと飲み込まない。Noと言うことで自分のスペースが広がる。そのスペースが、心との対話ができる余白」という言葉。
ああ!私は人の侵入を許しすぎて、1人でいる時も、人といるような感覚になっていて、心に聞くことができなかったんだな。
相手に合わせて居たくない場所にいる時は、心を閉じることで、シャッターを下ろした手前側は、1人でいられていると思っていた。
でもそのシャッターは、「できるだけ他人が侵入できるよう」広いスペースをとって下ろしていたので、私に残されたのはほんのわずかなスペースしかありませんでした。
だから、心との通話回線が雑音ばかりになって、他人の感覚が私の質問に返答してくるので、心に聞くことに抵抗を感じていた。
心と繋がりたいのに、他人の感覚に繋がることを恐れていたんです。
だから、なんでもYes!と言って、「私のスペースまだこんなに空いてますよ!」というのではなく、それは最初から私のスペースなのだから、そこから先はあなたのスペースじゃなくて私のスペースだよ!と伝えるために、Noと言いなさいと心が教えてくれました。
そしてそれは、感情的に訴えるのではなく、最初から当たり前のことなので、建設的に(何の感情も交えずに)言ってもいいことなんだよ、と教えてくれました。
感情的になるのは、限界まで他人の侵入を許してるからだよ、と。
私はその言葉を聞いて、あの日閉じた心の扉を、そっと開けられたような気がした。
(つづく)
※7月5日・6日はブログをお休みさせていただきます🙇♀️