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私は相手の言葉の中に真実があると思い込んでいたので、人の言葉を間に受けてきました。
自分で選択したり、気づいたりすることができるのに、人から言ってもらう言葉の方が大切で、重要な気がしていた。
だから、誰かが言う一言で自分の人生を選択してきました。
「心に聞く」ができるようになると、自分の心と相談して選択できるようになります。
それは、「自分じゃない誰か(無意識)と相談しているような気がするけど、誰か(他人)ではなく自分と決めている」という不思議な感覚で、心がどんどん安定してくる。
だけど私は、その「心に聞く」すらも、自分のものではなくて他人の心の方が優秀で、信頼に値すると思っていました。
だから、自分の人生の様々な局面で、いろんな人の心や指(※中指ビンゴ。大嶋先生の療法です)に頼ってきました。
やっぱり面白いのは、「心に聞く」が上手い人の回答は、質問内容が聞いている本人のことではなくても、納得する回答だったり、ピタリと当てられたりして、すごい!!という高揚感が得られること。
それに、自分1人で答えを出すのはあまりにも不安で心許ないので、誰かに言ってもらうとすごく安心することができます。
まさに私は、人の言葉の中に自分の真実を見出していた。
でも、人の心に頼りすぎて見えてきたもう一つの真実は、「心はその持ち主の味方である」ということ。
だから、人の心に頼りすぎていると、だんだん自分の人生が、無意識にその人の人生に寄っていく感じがあるんです。
例えば調味料に例えると、私の目から見て、ある人の心は少し塩っぽい感じがする。別の人の心は、ちょっと味噌っぽい感じがするというように、ほんの少しだけその人独特の味がするんですね。
確かに調味料を加えないと、味がしないし料理が美味しくないので、心に聞いてもらった時は、塩の味がする!と美味しく食べられる感じがする。
そして、塩っぽい味がする人も、味噌っぽい味がする人も、同じように「心に聞く」が上手いと、私の悩みに対して同じ回答を出してきたりもする。
そう、上手い人の心の味は美味しいんですね。
でも、ある食材(悩み事)を調理するのに、塩っぽい味がする人の心に頼ってばかりいると、心に聞いてもらうたびに少しずつ塩を摂取することになるので、それは積もり積もって塩分過多になってしまう。
本当は感じられたはずの自分の心との信頼感を感じられなくなり、塩分という刺激を求めてまた人の心に頼る羽目になる。
だから、少しずつ自分の人生からずれていくんです。
人のことを聞く時も、少しだけ聞く程度なら、悩んでいる本人にとって有益な回答をしてくれるけど、心は元々その持ち主の絶対的な味方なので、頼りすぎると、ちょっとずつ心の持ち主にとって有利なように物事が運ばれていく。
「人の言葉の中に真実がある」という仮説は、それを信じて突き詰めた結果、そうではないということがわかってしまった。
結局私は、自分の心に聞くというミッションから逃れられそうにないんです。(トホホ…)
(つづく)